名古屋城内で生意気な「徳川家康」(戦国武将隊)に会ってきました

 季節は青葉若葉が茂る6月に入ったばかりの清々しい日曜日のことでした。

 私は、2022年9月3日(土)、4日(日)開催の「第20回ふるさと全国県人会まつり」会場(名古屋城)の下見と天守閣の建設や最近の城内がどうなっているのかを確認するために、杖をつきながら名古屋城に行ってきました。

 正門を入るとそこは西之丸(会場)でした。本丸表二之門まで向かって左側が内堀、右側に植樹帯と土塁が有りました。西之丸はまるで名古屋市自慢の100m道路を思わせる幅4車    線+α位?の広い通りでした。

 通りで足軽と忍者が、マイクで城内の入場者に対して「戦国武将隊(名古屋おもてなし武将隊)」の演武会場(二之丸広場)と開演時間を大声でふれ回っている光景に出会いました。

 面白そうでしたから開演予定時間に合わせて会場の二之丸広場に行ってみました。

 会場にはステージこそ有りませんでしたが、周りは手入れが行き届いた樹木に囲まれいました。見学する場所は芝生と土のうえで砂ぼこりがするような場所でした。

                                    開演に先立ち忍者が見学者に注意事項を説明してくれました。                これがまた今の世ではおそらく非難ごうごうとなる程の侍言葉で上から目線の説明でした。ただ説明内容はその言葉ぶりとは違い懇切丁寧なものでした。

 いわく「周りの人との間は両手を広げ十分な間隔をとるのだぞ。最前列は小さな子どもじゃ、その次は体の不自由な人とおなごじゃ、その後に健康な大人だぞ。前の席の者は少し砂ぼこりがするが我慢するのだぞ。そうそう手拍子、足拍子、拍手を忘れるなよ、

 また、写真は自由に撮っても良いが出来れば演武の模様をSNSやブログで拡散してくれ」等々の説明でした。

 演武は言葉遣いも含め440年以上前の時代(本能寺の変1582年)から現代にタイムスリップしたものでした。

 足軽の演武・和太鼓に始まり、織田信長の殺陣、前田慶次(前田利家や上杉景勝に仕えた戦国武将)の槍使い、徳川家康の殺陣や各武将の名乗り上げや当時の時代説明そして本能寺の乱後の徳川家康の伊賀越えを手助けした忍者服部半蔵の活躍等々と続き、時間を忘れさせるほどの面白いものでした。観客の大声援と拍手喝さいを浴びました。

  演武終了後は、武将ごとに分かれて写真撮影会でした。子どもたちは大喜びでした。

 演武も終わり正面玄関口に向かって帰る途中、私は「名古屋おもてなし武将隊」の一団に出会いました。

 その時、足軽の一人から「まだ武将と一緒に写真を撮ることが出来ますよ」との誘いが有りました。

 面白半分に徳川家康と一緒に撮ったものが下の写真です。

 以下はその時の家康との会話の抜粋です。

家康:「お主(ぬし)どこから来たのじゃ」私 :少し頭にきたので「桑名市から来たのだ。それがどうした」と反論。

家康:「オウ、我が家臣の本田忠勝(徳川四天王)の領地からじゃな」。

私 :「今は桑名市に住んでいるが、出身地は熊本じゃ。今度9月に全国県人会まつりがあるので下見を兼ねてきたのじゃ」。家康につられて思わず侍言葉になってしまいました。

家康:「オウ、そうか、そうか、火の国の武士(もののふ)か。頑張れよ、応援しているぞ」。

私 :どこまでも堅苦しい高飛車な侍言葉の連続で   いよいよ頭に来てしまいました。

  しかし最後に家康から全国県人会まつりの応援発言があったので落ち着きました。

  大人ですね。そこで家康に「肘でのタッチ(握手)を促しました」。そうしたら、

家康:「オウ、いかん、いかん、コロナ禍で誰とも触れ合うなと禁止されているのじゃ」。

私 :「そうか、そうか、そうだったな」と不用意な行動に反省。同時に家康のプロ意識の高さと優し

  さを感じました。

 名古屋城の正面玄関を出た所で、駆け足で帰る「戦国武将隊(名古屋おもてなし武将隊)」

の一団に、またまた出会いました。

 その時、家康は私に気付きニコリと会釈(2023年大河ドラマ「どうする家康」で主演する松本潤君にどことなく似ていました?マスクしていましたからね!)、さらに驚くことには後に続く前田慶次が一瞬立ち止まり「今度、火の国祭に行くでな」と声をかけてくれました。変ですね。私は前田慶次とは一言も話をしたことがないのに。なんで私を見て「今度火の国祭りに行くでな」と声をかけてくれたのですかね?

 初夏の清々しい名古屋城での出来事でした。

 皆さんも何処かであの生意気な「戦国武将隊」に出会ったら、是非温かい声をかけてやって下さい。

 もし侍言葉でなければ、尾張の織田信長だったら「おみゃさん、何処からいりゃした」、三河の徳川家康だったら「おまん、何処からおいでん」とか何とか言うのですかね?

そうそう「いいじゃん、そうだらあ、ほれみりん」とか何とか言いながら・・・!

 違っていますかね?  不適切な表現がありましたらお詫びいたします。

・「第20回ふるさと全国県人会まつり」‼

2022年(令和4年)9月3日(土)、4日(日)に名古屋城内にて開催 

全国の郷土自慢、うまいもん、踊り、そして珍しい方言に出会えますよ!

                     八代高校東海同窓会 

                     東海熊本県人会    松田冨博

史跡紹介・「御小袖塚」

 誰の故郷にもそのまちの物語や歴史があります。私たちはそのことを後世に引き継ぐ義務があると思います。
 1336年足利尊氏の反旗で建武の新政は崩壊しました。翌年、後醍醐天皇はわずか8歳の懐良親王(かねながしんのう)に九州を平定・上洛して尊氏を倒す役目を与えられました。別れに際し、後醍醐天皇は不憫に思われ、九州に発つ懐良親王に小袖を形見として与えられました。
 命を受けた懐良親王は九州山川港に上陸され、八代にご両親を偲び、菩提を弔うご陵墓を造り、形見の小袖を埋められました。その地は毎年11月22日、23日に開催されるユネスコ無形文化遺産の「妙見祭」主会場の八代市妙見町にあります。
 平成28年夏、岡山元紀氏(前八代高校同窓会会長)が現地を見に行かれました。ところが五輪塔は傾き周りの石垣は崩れ落ち、由来が書かれた説明版は文字が判読できない状況でした。
 惨状を目の当たりにした岡山氏は、八代史談会、商工会議所等に協力を求めると共に、地元町内会と共同して整備運動を起こされました。その結果、令和3年12月立派な「御小袖塚(おこそでづか)」が復元しました。
 この間、県内外の人に整備活動を呼びかけられたことにより、八代市民始め多くの人達が、この御小袖塚を知ることとなりました。
    副会長 松田 冨博

追伸 この記事は、令和4年3月発行の東海熊本県人会会報Vol.25に掲載されたものを県人会の許可を得て転載したものです。

第8回八代高校東海同窓会総会・懇親会開催中止のお知らせ

                             令和4年2月17日

 八代高校東海同窓会 会員各位

                 八代高校東海同窓会 会長 坂田孝之

   第8回八代高校東海同窓会総会・懇親会開催中止のお知らせ

謹啓 時下ますますご健勝のことお慶び申し上げます。平素は八代高校東海同窓会の活動にご協力賜り、厚く御礼申し上げます。

 さて、令和4年4月16日(土)に開催を予定いたしておりました「第8回八代高校東海同窓会総会・懇親会」は度重なる新型コロナウイルス感染拡大を考慮し、中止することにいたしました。

 今回で三度目の開催中止となりますが、何卒ご理解していただきますようにお願いいたします。

                                 謹言